青ペンギンの日記

i46bは基本的に漫画や小説のレビューをします。時として思索した跡を残していくと思います。

【感想】もしも明日、この世界が終わるとしたら

2022年12月28日発売。年末ギリギリの発売にビックリ。

 

このライトノベルを書いている漆原雪人は美少女ノベルゲームのシナリオで有名な人だ。『いろとりどりのセカイ』や『さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-』で有名。逆にその1シリーズと1作のみの寡作なライター。そんなやつが、ラノベを!?

イラストを担当しているゆさのは『ATRI -My Dear Moments-』のキャラクター原案や原画、背景美術のわいっしゅもまた、美少女ノベルゲームの背景で活躍している人だ。

要は売れてるエロゲークリエイターで布陣を組んでラノベに殴り込みである。

 

以下AmazonのリンクとAmazonからあらすじの引用

終わりゆく世界を前に、少女は願う。

 

かつて英雄(あの人)が愛し、そして救った世界。余命はおよそ一年。

たとえ、私が死ぬことでしか世界が救われないとしても――。

「大咲空さん。どうか、お願いします。この世界を救ってもらえませんか?」

「あなたはかつて、この世界を救った『英雄の生まれ変わり』なんです」

 

終わりゆく世界を前に、少年は自問する。

 

召喚されてからこの世界で過ごした、少女(ユーリ)との日々。

ちょっぴりドジで、すぐ拗ねる。でも、たまに見せてくれる笑顔が嬉しくて――。

この世界と、大切にしたいたった一人の女の子。

どちらか片方しか救えないのなら――。

 

見てください! このタイトルでこのあらすじ! 面白くなさそうな感じがすごい! (ネガキャン

 

とりあえず実際の感想。

 

まず文章のクセが強い。エロゲライターのころからクセが強いと散々言われていたが、それがラノベになるとクセが強いじゃなくて、もはや下手とすら言える。

すべての文に主語をつけようとするのは、何も小説の書き方がわかっていなのでは? とすら思える。とりあえずクセが強いのを避けたいなら試し読みはしたほうがいい。編集の目がしっかり通ってるのかなぁ。

あとは第3視点から俯瞰するような文自体が少ない。地の文もほとんど主人公のモノローグ。少なくとも客観的な文が見当たらなかったのは強調しておきます。エロゲでの書き方をそのままラノベにしていると言えますが、うまく変換できておらず、嫌な文体にまとまっています。

 

時系列自体はほとんどいじられていないのかな。ときどきフラッシュバックがあるが、それらすべては実際のシーンがそのまま思い出されるのではなく、会話の中でこういう話があったねというふうな感じで語られる。なので一文ごとに一文だけの時が進む。

 

ストーリーそのものについて。

ゼロ年代セカイ系テン年代のサヴァイブを合わせたのをもう一回ゼロ年代に返して、20年代的草食主人公を中心に据える。

なんやこれ?

設定の突拍子さについていけなかったり、「うおコテコテのゼロ年代要素だ!」みたいなのに釣られたり。

あまり目新しい要素がなく、退屈。文自体の悪さも手伝って話のダイナミックさが伝わってこないのもあり、気持ち悪さが残る。

あと、話が進むのも遅い。1巻終わりと共にオープニングが流れるのが幻覚で立ち表れてきたが、エロゲペースでの話の進め方はラノベでやると退屈なので、もっとグイグイ話を回してほしい。

 

次巻を作る気満々だったけど、このままなら打ち切られるんじゃない?

もっとラノベに寄せた作りにしてほしい。

気鋭のエロゲライターのラノベだし、続きが出たら買うけど、もう期待できん。打ち切られたらエロゲで出してね!

【感想】竜殺しのブリュンヒルド

読み始めたら止まらない、すばらしい物語だった

この作品は、ブリュンヒルドという少女がある人に語って聞かせるという体裁の物語だ。「どこで」「誰に」が、作品を読み進めていくうちになんとなく推測が付き、最後にブリュンヒルドとその人がいくらかの会話をして別れ、終わる。たった1巻で、ライトノベルという枠組みなのに、キレイに終わらせる。

 

思えばこの作品はライトノベルらしくない。ハイファンタジーを思い出させる重厚な雰囲気や、キャラクターの魅力以上に会話での駆け引き、物語の要素と民話的要素の中二的でない密接な繋がりなど。児童文学の設定でありながら、文芸的なことをやっている。矛盾的な領域2つがぶつかり合うジャンルとして、「ライトノベル」でしかできないことだ。だが、重苦しい。まったく軽くない。

 

あとがきにて作者は「愛と正義の物語が好きです。」(p.241)と述べている。わざわざ言うのだから、この作品は「愛と正義の物語」としての側面があるのだろう。ただ、真っ向から描くのではない。ドロドロとした激情と、残酷ともいえる結末を見ると、純に描かれているとは判断できない。

そもそも私は「愛と正義の物語」だと言われても、ピンと来なかった。

「愛」について。そもそもブリュンヒルドの目的は、自分を育ててくれた竜の仇うちだ。しかし、その竜は決して人を憎むな、復讐など考えるなと繰り返し言っていたようだ。ブリュンヒルドは竜への愛によって板挟みになっている。つまり、「愛ゆえの仇討ち」と「愛ゆえの赦し」。だが、その葛藤はあまり感じられなかった。初めから愛以上に、自らのために果たす復讐だった。利己的な目的なのはいくつかの会話から示唆されている。

次に「正義」。もしこの作品の中に「正しい」を探すなら、それは少女が暮らした「エデン」になるだろう。しかし、物語の冒頭にてそのエデンは燃える。正義は失われた。少女はブリュッセルとなり、エゴにまみれた人との駆け引きに身を放り込む。社会的な正義も積極的に描かれていない。ブリュンヒルドは良心すらも計算高く利用する。他の描写を見ても、正義を順当に肯定していない。

そもそも「愛と正義」が頭に浮かばない。あとがきにて言及されることで初めて『アンチ「愛と正義の物語」』としての姿が浮かび上がってくる。そのレベルだ。

作者はその点をわかっていて、「愛と正義の物語」へと向かいながらも離れていってしまう、「作者と作品が戦う」として断っている。とはいえ「愛と正義」を意識していてこれかよ。この面から再検討する必要がある。

 

私が特に気にして、楽しんでいたのは、「ブリュンヒルド」の真意はどこにあるなか、だ。「少女」と対比的に「ブリュンヒルド」は他の登場人物を通してのみ描かれる。彼女はあの場面で本当は何をかんがえてたのだろうか、最後まで読んでもわからない。煙に巻かれてしまう。そういった懐疑へと誘われていくのが楽しかった。

 

かなり細かく組まれ、明瞭な結末があるにもかかわらず、「ブリュンヒルド」とはなんだったのかという疑問が尽きない。ただ一読しただけでは終わらない魅力がある。

 

いろいろと余計なことを書いてしまったが、およそ「ライトノベル」に期待するものと違う、複雑な人間を描こうとする傑作だった。もっと精密に読んでなにか書きたいな。

過去を思い出として掘り起こす【感想】すずめの戸締り

 『すずめの戸締り』を11/27に見た。

雑感

 映画体験としてはとても楽しかった。勢いで見れる(というか勢いでしか見れない)ものだったうえに、音楽や美麗な背景美術がすばらしく、気持ちよかった。
 TwitterのTLには災害だの天皇制といったものがどうこうと言った話が流れてきていた。しかし、ここをフックに読めるのも確かだが、あまりにもデカい釣り針にひっかかっているに過ぎないような気もする。
 特に災害、つまりは震災については、日記で主人公が3.11の直接的な被害者であるという描写が示されているのは、安易だなと感じた。震災を描くだけにしても、ここまで直に現実の出来事と結びつける必要もないだろと感じた。
 天皇制もたぶん要石の話とか、皇居の地下のデカい空間とか、あとは右大臣左大臣が東西逆なところとかで仄めかされているだけで、作品全体でそのテーマに取り組んでいるわけじゃないだろうなと感じたし、粗雑だろ。

 

 というか、作品全体で眺めてみても雑なところは各所に見当たる。
 導入ではとにかく主人公がとにかく「これはなにこれはなに」と口々に疑問するから、イライラするし、ちょっと無理を通してでも視聴者の気持ちに寄り添おうとする。過剰だ。
 次にロードムービーなところ。
 この部分に関しては、各地に行っては人と出会って助けられてミミズを止めるってなるのは筋が通っている。が、人と出会って助けられるところの描写が粗雑としか言い様がない。序盤から尺が足りないんじゃないかと考えたりするほどだ。
 アニメ映画で2時間ほどの長さは標準的だと思うが、しかし、さまざまなことをやろうとして詰め込んだ印象を受ける。

 

 あと、新海映画に求めているものって、RADの曲で絶頂してしまう体験だったんだが、それもあまりなくて寂しい思いをした。

 

考えていたこと

思い出の供養

 ちょっと他の映画の話になるが、『雨を告げる漂流団地』って作品が今年のアニメ映画にあって、その作品の話は「過去を過去として放っておくんじゃなくて、思い出として残して忘れておかないでね」って話でもあった。この作品も似たラインとして考えられそうだ。
 これは自分自身の周りが過去を褒める人が多いのもあって、忘れてしまったものを思い出として掘り起こして形にする、価値付けるってのをやろういう風向きが強い。そういうラインとして忘れてしまったものを宝物にしたいってのを感じる。

 というわけでそういう要素を考えてみたいなぁって。

この作品における思い出とか過去とか

 この作品の設定として、災害が起きるのは人々が過去を忘れてしまい、思い=重いがなくなってしまったってのがある。
 そういう設定の上に、思い出を閉じ師が供養して重しとするってのがある。

 そういう流れが作品全体を貫いている。
 締めるべき戸はすべて廃墟にある。それは忘れられたものであり、思い出に変換されていないからだ。その場で思い出として掘り起こす。

 思い出というのは良い思い出だけでなく、悪い思い出も含んでいるはずだ。しかしそこら辺は仄めかすに留めてあり、直接描かれていない。
 主人公には震災がトラウマになっている面があるが、それは放っておいてあり、廃墟を綺麗なものと受け止めていない節がある。が、覚えているだけでも、風化してない過去である。

 映画の最後で主人公が子供椅子を未来の自分から子供だった自分へと渡す。それは子供椅子を大事にすると言ったのに忘れてしまった自分自身への贈り物である。

 と同時に、過去ばかりに囚われずに未来も向けって話をする。
 思い出をテーマとする作品は締めに、思い出として形にしたら思い出として記憶の中に入れといて、未来を向くってのは定番である。その形式がこの作品にも取り入れられている。

エロゲという過去を思い出とする

 この作品の中にはKey作品『AIR』の要素が散見される*1

 『AIR』のSUMMER編要素として、誰かが自己犠牲精神を発揮するところが。これは正直弱いかな。
 AIR編的な要素としてはいろいろある。一つに主人公が叔母に育てられたっていうところ。AIR観鈴と重ねて考えてみると、幼少期に母親を亡くし、叔母に育てられるというのがある。また作品の途中まで叔母は出てこず、合流するってのがある。
 もう一つに無能な椅子がある。草太さんは椅子になって無能な感じになる。ダイジンなるネコを追い掛けるしかできていない。『AIR』はAIR編になって往人さんがカラスになってしまい、完全に無能になるって話がある。これと同型だ。

 このようなAIR要素を多く含むってのを偶然とは考えられない。というかそういうことにしたい。
 この物語はただ、普段やってる物語の中心にくる男と女を逆にしているってだけで、シナリオ自体はエロゲ的だ。ロードムービーのところも、やっぱり○○編と区切って考えられるし、そういうものな気がする。
 そういうエロゲ的な要素を、思い出として供養するってのをテーマにした映画で取り込んでいるから、すでに記号と化したエロゲを具体として掘り起こして思い出とし、自分の物語という形にして、仕切り直すってのが作品でやっている意図としても感じられた。

まとめ

 新海誠の集大成として売り出された作品である本作だが、こういった冷たくなった過去を温かみのある思い出にするって要素からも本格的に次のステージへと進めるために仕切り直しをしたいんだな、と。
 ただ、そういったことをするにしてもいろいろなものを詰め込みすぎだし、雑な造りになってしまっている。

 が、やはり一本の筋は通っているし、語りたいように語れてしまうだけのことをしているので、すごい作品だなぁ、と。

 『君の名は。』を初めてみたのは中学3年のときだった。あのときのエンタメ的な完成度に対する衝撃に打たれてしまった。ただ、今回のは繰り返し見たいものでもないなって。
 一度だけの映像体験としては上質なものだっただけに、もっと突き抜けたものが欲しかった。

*1:この話は友人のちろきしんが発狂していたので気付けたことだ

【感想】ジョーカー

「無敵の人」を描いている作品とのことで前から気になっていた。

 

主人公のアーサーさんは、上部と下部に分かたれている社会の下部に属する人である。唐突に笑ってしまい、また止まらなくなってしまうという精神的な病を患っている。普段はコメディアンを目指して生活しており、クラウンの仕事をしながら細々と生活。母親の介護もしながらなので、いつ生活に限界がくるかもわからない。

序盤からとにかく痛めつけられていく主人公。
看板を持つバイトをしていたら通り魔みたいなやつに攻撃されて看板を奪われたり。

作品中盤まではとにかくアーサーって主人公が惨めな生活をしているってのが描写される。

クラウンのバイトをクビになってしまう。化粧を落とさないまま地下鉄に乗っていたら上部にいる人間に絡まれて、ついカッとなって、同僚に護身用として渡された中を撃ってしまう。

ここから物語が急加速して面白い。

主人公は犯罪に手を染めてしまったにもかかわらず、世間では、下部にいる人間のヒーローとして扱われた。特に時の権力者が市民のことを「クラウン」とバカにしたこととクラウンの姿をしていたこととが合わさってブームのようになる。

とまぁ前半部では主人公が社会的に適応しようとして苦労する様が描かれている。

では後半部になるとどうだろうか。

社会に適応しなくてもいいじゃないかと主人公のアーサーはどんどん転落していく。

象徴的なのは、笑ってしまう精神病の薬を飲まなくなったらしい。人生はより楽しくなっていく。こっちの方が気楽なんだって。無理に社会適応する方がしんどいのかもしれない。

なんか色んな要素が合わさって、悲劇としか思えない状況になるアーサー。

しかし本人は笑っている。

人生は主観で決まる。

どう考えたって悲劇にしか映らない人生だが、その只中にいてイベントに踊らされる自分を見たら喜劇としか思えない。
こういうのは主観によって決まる。そう思えばそう。

例えば彼がコメディショーに出て、まあ失敗したわけだが、それは彼にとっては恥ずべき出来事でも、それをテレビに取り上げて笑いにしてしまえる人もいる。悲劇も喜劇に変わる。

アーサーは失敗を笑いに変えてくれた芸能人の招待されて生放送の番組に出ることに。

その前後にこの作品でやりたかったんだろうなってことがすべて詰まっているし、一番の見せ場では言いたかったであろうことを全部セリフにしてくれる。非常にわかりやすい。

クラウンのカッコウをして自分をバカにしたやつを殺し、自分を助けてくれた人を見過し、階段を「降りて」く。

そして生放送で演説をして芸能人を射殺。

バーンッ!

という感じのストーリー。

事前に「無敵の人」を描いた映画であると教えてもらわなければ、そうと気付かなかったかもしれない。そういう風に聞いていたからこそ、この映画を一本の芯が通ったものとして楽しめた。

前半部は社会的な体裁を保とうとしているがうまくいかないし、なんとかしがみついているという風。

後半部はどうだろうか。社会的に、道徳的に考えればこそ、間違っているアーサーだが、彼自身はとても楽しそうである。
むしろ見ているこっちさえハイになってくるほど。

社会のレールから逸脱するのみに留まらず、どんどん悪い方向にいく。しかし彼自身はそうであるからこそ自由だ。
なにせ彼にはもう職がない。家族もいない。守るものなど何もない。

彼のように生きれたらなと私は考えてしまう。しかし私には社会的体裁を気にしてしまう理由がたくさんある。そういうわけだから「無敵の人」にはなれない。

自由たる気持ちよさは責任によって奪われてる。

しかし責任があるからこそ人の中で生きれている。

いろいろと考えるのが楽しくなる作品だった。

テーマ性をセリフにそのまましているだけあって、ついつい考えさせられてしまう。

タイトルはジョークを言う人って意味合いがあるらしい。ジョーカー単体で悪役な印象を持っていたからこそ、タイトル回収に驚いた。

考察も楽しくでき、かつインパクトのある映画だった。

【感想】ショーシャンクの空に

なにかと耳にする洋画タイトルで、今年発売したあるゲームでこの映画の要素が取り入れられていると聞き、すごく興味が湧いたので観ました。

 

ストーリーの内容全体をそれなりにまとめて、ちょこっと感想を書こうと思います。

 

 

プロゴルファーと逢引していた女性が殺された。逮捕されたのは、被害を受けた女性の夫アンディ。優秀な銀行員であったアンディは妻が不貞を働いたことに腹を立てて、間男と一緒に殺害した容疑で終身刑となり、ショーシャンク刑務所に入ることとなる。
アンディは当初ほかの囚人に溶け込まなかったが、1ヶ月経ったころに自身の鉱物収集趣味のためにロックハンマーを配達人レッドに頼むところから交友しはじめる。
さまざまなイベントを通してアンディは囚人の中に受け入れられつつあったが、一方で彼を執拗に囲い犯してくるクズの囚人もいた。が、そのクズの囚人たちも一度派手にやらかしてしまったのちに病院に入院し、アンディは安全な身になった。レッドたちはアンディを快く迎え入れようと女優のポスターを送るなどしていた。アンディはそれを飾っていた。さてアンディの教養と学識の高さから図書係に任命される。ずっと係をしていたブルックスと打って変ってアンディは図書館を拡充しようと議会に手紙を送っていた。さて、刑務官たちはアンディに自分たちの税務管理や資産運用を手伝わせていた。
いくばくか時が経ち、ブルックスの仮釈放が決定した。が、ブルックスはかれこれ50年もショーシャンク刑務所におり、外の世界が怖がった。実際にシャバに出ても、うまく馴染むことができずに自殺してしまう。刑務所に来た当初は恐れた塀が馴染んでくると自分たちを守ってくれるものになる。囚人たちが徐々に刑務所から抜け出せなくなっていく末路がよく出ている。絶望に囲われて、絶望と友達になっていくのだ。
アンディが『フィガロの結婚』のレコードを見つけ、刑務所全体に放送するという出来事が起こる。曰く、「音楽と希望は誰にも奪えない」らしい。しかしレッドは、希望は塀の中では危険なものだから捨てろと言う。絶望に馴染み希望を拒絶していくのだ。
ところでアンディの努力甲斐があったのか、図書室は徐々に拡充され始めた。音楽を聞けるようになったり、さまざまな本が置かれて、賑いを見せる。が、所長は不正を企てはじめ、貯蓄しはじめた。特にアンディを会計係を任命して不正に金を溜め込んだ。
アンディが入所してからおよそ20年足らずの時が経った。トミーという強盗の罪で捕まった男がショーシャンク刑務所にやってきた。彼はアンディに頼み込んで高卒資格を取るために教えてもらうことにする。1年努力し、ついに申請をしたころ、トミーはアンディの罪には別の真犯人がいると知っていると語る。アンディはそれで再審請求を考えるが、所長はアンディにいなくなられると困るので懲役房にいれ、トミーを殺す。それでも尚アンディは再審を諦めず、不正経理の告発をちらつかせて駆け引きをするが、所長は折れず懲役を延ばす。
最終的にアンディが折れて会計係を続けることに。しかしその頃からアンディの調子がおかしくなり、レッドに外の世界出たらなどといった希望を語ったりする。レッドらお友達らに不安な色が見え始めたある嵐が過ぎ去りし日、アンディが刑務所から消える。
部屋のポスター裏に穴が発見されたことから脱獄したと発覚する。アンディは不正経理の際に作った偽の名義を騙り、金を回収した後に太平洋の方へ行ったらしい。脱獄前夜にアンディが送った告発状のためにショーシャンク刑務所にいる刑務官や所長らに逮捕状が出される。所長は拳銃で自ら自決した。
そうしてショーシャンク刑務所に新しい風が流れ始めたころ、レッドは服役40年目を迎えて仮釈放される。が、ブルックス同様に外の世界に馴染めずひしひしと死を考え始める。そのときにアンディと彼が脱獄する前にした会話を思い出し、その頃の会話を便りにアンディの伝言を発見する。かくして仮釈放違反を起こし、レッドはメキシコへ向かう。そこで太平洋を前にアンディと再会を果たす。

 

 

話の終わり方が、アンディは刑務所という枠に収まらない人間で、刑務所の空から飛び立っていったという風な表現をしていた。実際にアンディが嵐の中脱獄を決行し、大雨の中、手を広げるところは有名なため、そこに意味を見出そうかと思ったが、それよりも服役中の様子から作られる様々な構図とその変遷を考えるほうが大事な気がした。

シャバがあり、塀に囲われる形で刑務所がある。その中にある刑務所社会。囚人と刑務官の力関係、囚人内での交友関係の揺れ動き。基本的に囚人が男しかいないため、恋愛を抜きにした人間関係が描かれる。特に印象深かったのは、屋根修繕のさいにアンディが刑務官と駆け引きして囚人たちにビールを振る舞ったところだ。正直アンディの意図が見えなくて怖いシーンではあるが、そこでアンディの評価が上がる契機となった。単純なシーンだが、レッドたちがアンディを友人と見なし、その先での協力が生まれる重要なところである。

そのようにして強固な関係を作っていく傍らでアンディは脱獄の計画を進めていたのもまた面白い。最終的に刑務所内の権力構造から脱出する形でアンディは出ていくわけだが、その脱獄に他の友人たちは知らず知らずのうちに巻き込まれているのみで脱獄をしていない。それは囚人たちが刑務所から出る勇気がないのを知っているからだろうが、それでも刑務所内で築いた人間関係を捨てていくのに衝撃を受けた。ある種強行したとも取れるこの行動のために、アンディが刑務所内の種々の関係に囚われない自由な存在であることがより強調される。

レッドにだけ脱獄したあとの行き先を伝えているところに、ある種男色に似たものを感じる。だが、この結末で提示される関係はアンディが囚人にレイプされたり、刑務官が囚人を扱ったりするような暴力的関係と対比される。

 

さて、エンタメ的に楽しめる側面ももちろんあった。ロックハンマーやポスターが伏線となっていたのはわかりやすいものであったが、少し驚いた。写されるのが閉鎖的な空間のみであったため、最後に風穴を空けてくれたような気持ち良さがあった。

 

塀の中の変わっていかない淀んだ日常が楽しめた良い作品だった。

【感想】砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない

書店に寄ったときに、イラストレーターの白身魚先生が装画を描いている本を見かけた。それが『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』だった。どうやら特殊カバーらしい。いつかは読みたいと思っていた本なので、これを期に読んでみることにした。

 

 

山田なぎさが通っている中学校に、歌手の娘の海野藻屑が転校してきた。自分のことを人魚とのたまい、大きなミネラルウォーターばかり飲む彼女をクラスの人は珍しがったが、なぎさは興味のないように振る舞った。彼女に構ったところで自分の生活が豊かになるのだろうか?彼女の言うところの実弾主義で過ごしていたところ、藻屑の方から執拗に追い掛けられるようになってしまった。これは、なぎさと藻屑が出会い、死別するまでの物語。

 

 

なぎさの実弾主義はシングルマザーの家庭で、兄が引き込もりという過酷な状況に由来する。彼女がこの先長く家族と共に生き抜くために、そのような選択をしたのだ。中学卒業後に自衛隊に所属しようと考えるほどに、彼女は徹底して実弾のように生きようとする。

一方で藻屑は、砂糖菓子の弾丸のような生き方をしている(と作品内で言われている)。父に虐待されているにもかかわらず、それを愛情表現と言い張る。体にできた痣や、聞こえなくなった耳、足を引きずる動作を、自分が人魚と言うことで取り繕おうとする。自身により害が及ぼされようとも、甘くコーティングしようとするのだ。

 

ところで他に出てくる主要キャラクターたちを、この実弾と砂糖菓子の数直線上で表わせるだろうか。

たとえばなぎさの兄、友彦は節々から砂糖菓子側の人間のように思われる。たとえば「貴族」のようなという描写。引き込もりであること。しかしながら現実をそれとなく向き合っており、実弾的な側面を持っている。彼は2つの要素を持ち合わせながらも、そのどちらにも振り切れていない。最終的に砂糖菓子要素が抜けてしまい、自衛隊になるところから、本質的には実弾主義側であるが、今はどうしようもない理由で砂糖菓子側の人間であると考えられる。

次に、藻屑のことが好きな花名島正太。彼の描写は少なく、どちらとも取れない。一般人サイドに普通なら位置付けられるだろう。しかしながら、全体として砂糖菓子が「特殊」っぽく描かれる印象から、普通な彼は実弾に近いと予想される。

最後に藻屑の父、海野雅愛。彼は精神的に病んでいることが伺える。現実を直視しきれずに、自分のためだけの論理をしたてあげて横暴に振る舞う。実弾のような砂糖菓子を周囲に撃っている。

 

強引だが、実弾と砂糖菓子の二項対立を用いて、これらのキャラクターを位置付けてみた。

 

実弾を秩序だったもの、砂糖菓子をはカオス的なものとして考えてみると、この作品からは砂糖菓子でが実弾によって抑えられてしまう現実を感じる。藻屑は死に、雅愛はその殺害で逮捕され、兄の友彦は自衛隊に入隊した。最後には世に適った形に落ち着いてしまうのだ。
しかしながら、藻屑の死に感じる大きな喪失は何だろうか。彼女は役に立たないようなことばかりしていたが、そうしなければ生きれなかったのだ。彼女が父親に愛情を感じていたのは確かだろう。その生活が、最後には自分の死に繋がるとしても彼女は、フィクションで取り繕い続けたのだ。

 

実弾は、その内的な性質が故に社会適合をうながす。だからといって、なぎさのように過剰なまで徹底するのには薄ら寒さを感じる。結末で、兄が働き、なぎさが高校に通えるようになった、収まるところに収まった現実を見て、藻屑がいなくなってしまった穴を間接的に感じる心はなんだろうか。

 

混沌としたものに押し潰されたように映る、主人公の姿にカタルシスを感じるのはなぜだろうか。

 

否応もなく現実は理性を要求してくる。段々と昔持っていた感性は擦り切れていく。その擦り切れていく、言い様のない感覚を、この作品は丁寧になぞって刺激する。それは、もう失いつつある何かを思い出させてくれる。どこか懐かしさを伴った感動が読了後に残った。

【感想】その着せ替え人形は恋をする

アニメ1話放映後、作画が良いや女の子がかわいいといった好評が多かったので気になった。ふと入手経路不明だが原作が4巻まで置いてあったのを思い出して読んでみたらかなり面白かった。最新刊まで買って読んでしまった。

 

 

 

 

まず第一に、ヒロインである喜多川海夢の顔がいい。一挙手一投足がかわいい。主人公が喜多川さんにドギマギさせるのを見ているとニヤける。これが気持ちいいんじゃ~。マァジで顔がいいので、表紙見て「この娘かわいいな」と思ったら間違いない。

それに、この作品の基本コンセプトが「コスプレ」。顔のいいギャルが色んな衣装を着る。最強。

 

一方で、最近は「オタクにやさしいギャル」作品が増えてきたと言われているが、この作品はそういった作品群と似て非なる位置にある。一般にああいった作品は「陰キャな男のオタク主人公が気さくなギャルにちょっかいを出される」というのが多い。確かに主人公はどちらかというと陰気な感じはするが、それでもひねくれてはいない。そして、本作でオタクなのは主人公ではなくてギャルの方。おそらくそうであることがこの作品でやりたいことの1つなのだろう。

 

この作品を読んでいると前向きになる。それは喜多川海夢が自分の好きなものをなんの臆面もなく言うのが大きい。正直な思いを主張する彼女に驚く。それが気持ちいい。

 

主人公はそれと対照的で、好きなものを素直に言えない。主人公はヒロインが好きなものを真っ直ぐ言えるのを見て、当初「自分とは真逆の世界で生きている人」だと思う。物事を複雑に考えてしまう。そこで生まれる膠着を喜多川海夢が真っ直ぐと思いを口にすることで壊す。主人公も喜多川海夢のように素直な気持ちを言えるようになってくる。

 

なにもそのような変化を持つのは主人公だけじゃない。主人公以外のキャラにも、否定されるかもと怖がるキャラが出てくる。しかし、そういったキャラクターたちもコスイベに出たり人と話したりするうちに、自身の先入観が本当に単なる先入観であるのを知る。

主人公もまた、好きなものを好きと言って否定される怖さを知っている。他人がそのように怖がる気持ちを理解している。だが、他人がそういった不安を口にするとき「そんな複雑に考えなくていいのに」と思うわけだ。

 

こういった、「素直で良いんだよ」というテーマは一貫している。8巻の「勝手に想像していたのは 俺で もっと 単純でいいのかもしれない」というセリフが特に印象的だ。それを体現する喜多川海夢もまた、周囲から肯定されている。

 

 

まとめると、着せ恋は「喜多川海夢の顔が良くて、喜多川海夢を見ていると元気になれる」作品だ。とにかく喜多川海夢が最高なのだ。